ダニエル・シェア『Distribution』をめぐる対話
Image from the series "Distribution" ©︎Daniel Shea
この対談は、アメリカ人アーティスト、ダニエル・シェアの最新刊『Distribution』の出版関連イベントとして開催された。聞き手を務めたのは、IACKを主宰し、自身もアーティストとして活動する河野幸人。同書を手がかりに、森、都市、写真集、グリッド、記憶、フィクション、そして現代写真の可能性をめぐる対話が行われた。 |
森を撮ることから始まった作品
河野幸人(以下YK):本日は、去年8月に出版されたダニエル・シェアさんの最新刊『Distribution』を中心にお話を伺いたいと思います。ダニエルさんはこれまでも、都市や環境をテーマに重要な作品を発表してきました。本作はこれまで同様に都市や自然も登場しますが、「森」が出発点となり制作が始まったと聞いています。
ダニエル・シェア(以下DS):本作はとてもシンプルな発想から始まりました。それは、森を撮影することです。
私はそれまで何年ものあいだ、建築を主題に作品を制作してきました。建築がこの世界において何を意味しているのか、そしてそれが私たちの世界に対する価値観をどのように映し返しているのかを探究してきたのです。
しかし正直なところ、都市の写真に取り組むことに少しうんざりしていて、環境を変える必要性を感じていました。そこで森を撮影しようと試みたのですが、すぐに一つの問題に直面しました。というのも、森の中にいる「経験」そのものを表現することが、とても難しかったのです。
それがこの本の出発点になりました。森の中にいる経験は、自分が環境全体に包み込まれているような感覚としてあります。身を置いている環境そのものが経験を形づくる一方で、多くの場合、写真には物事を断片化する傾向があります。その二つをどのように折り合わせるのか。それが最初の課題でした。
Spread from the book "Distribution" ©︎Daniel Shea
YK:作品を作り始めた時期は、ちょうど新型コロナウイルスのパンデミックとも重なるのでしょうか。
DS:それは正直なところ偶然でした。私は新型コロナウイルスの流行が始まる少し前に森を撮り始めていたので、不思議なタイミングでした。
パンデミックによって見えてきたことの一つは、環境問題について多く語られるようになったことです。ただし私の関心は、自然界に一時的な停止の瞬間が生まれたこと自体にあったわけではありません。
世界中のニュースでも報じられていたと思いますが、生態系が回復していくように見えたり、都市の中で動物が目撃されたりすることがありました。それによって、環境問題に改めて焦点が当てられたのだと思います。
そのことが、森の写真にもう一つのレイヤーを加えました。最初は非常にシンプルな問題でした。写真が何かを作り出そうとしている、あるいは、写真が何かを望んでいる、ということではありません。写真はただ、写真であるにすぎません。ただ、その断片的な性質こそが、私が最初に関心を持った問題でした。
しかし、そこにパンデミックが起こり、環境問題への関心が改めて高まったことで、私自身もそのことについて多く考えるようになりました。そしてそれが、断片と全体という、もう一つの問題へと重なっていったのです。
気候変動がゆっくりと進行し、私たちが日々の変化を知覚できないために行動することが難しくなるのだとすれば、その構造は、写真における「見ること」の問題とも重なっています。
YK:この作品を着想した時点で、すでに写真集にすることは考えていたのですか。
DS:制作を始めるとき、私はいつもそれを写真集にするのか、あるいはそうではないのかを考えています。というより、常に次の本のことが頭の中にあるのだと思います。私にとって本は、自分の実践の中心的な部分です。展示よりも本に最も執着していて、何より関心を持っています。
一方で、私はある種の二重生活も送っています。写真家として仕事もしていますし、その仕事は本のための作品とは見た目もかなり異なることが多いです。
ただ、私にとって本は二つの意味を持っています。一つは、長期的に制作していくうえでの秩序を与えてくれること。もう一つは、単純に本というメディアそのものへの関心です。ほとんど執着と言ってもよいかもしれません。
ジェシカ──具体化された抽象
YK:この本は現代における写真の、そして写真集の意義を視覚的に表現した素晴らしい写真集だと思います。読んでまず最初に、一枚一枚の写真の力強さに加えて、写真集の文法や、アカデミックな写真の慣習を非常に丁寧に踏まえていると感じました。しかし同時に、その枠に収まらない何か──ルールに則りながらも、そこから逸脱する要素を意図的に入れることで何かを試みている、結論を出すことを目的としていない本だということがわかってきました。
DS:本作は、ジェシカという女性が一日を過ごしていく様子を捉えた、一連の写真から始まります。
このパートは私にとって二つの意味合いがあります。一つは少し抽象的なもので、あなたが説明してくれた私の関心、つまり本づくりの構造とルール、そしてルールを破ることとの関係に関わっています。
外見上はとても厳格な本を、回り道から始めるというアイディアが気に入っていました。最初の写真の連なりを見た読者が、あるものを期待したあとで、形式的にも構造的にも大きく転換していくようにしたかったのです。
私にとってこの回り道であるジェシカは、抽象的な統計データが、肉体的な身体を持った人物として立ち上がる、「具体化された抽象」とでも呼ぶべき存在です。彼女は、人口統計上の中央値としてのアメリカ人を表象しています。私は、その人物がどのような人であるかを想定し、その人を撮影しました。
写真の中に写っている人物は、架空の人物です。しかしその表象、つまり中央値としてのアメリカ人女性は、統計的事実に基づいています。この具体化された抽象という考えは、再び森における部分と全体の問題へと戻っていきます。そしてそれは、写真が応答するのに適した、写真にとって中心的な問いを含んでいると思います。
YK:AIを使用すれば、誰でも容易に画像や動画を生成できる時代です。統計データを使って、リアルな架空の人物を作り上げることもできる。しかし、それをあえて写真で行う。ここに出てくる女性は、実は俳優が演じているわけですが、数字上にのみ存在する人物を演じる女性を、写真として記録している。そのねじれは、単にフィクションを作ることとは少し違う気がします。写真は断片的でありながら、同時に「その人がそこにいた」という事実性にも結びつくからです。
DS:おそらく今なら、似たようなことは別の方法でもできるかもしれません。データを入力すれば、簡単に画像や映像すら生成できるでしょう。しかし写真の場合には俳優を雇い、それを写真として記録することになる。おそらく、そこに重要な理由があるのだと思います。
私の中心的な関心は、ストレート・フォトグラフィーの中に新しい形式を見つけることだといえます。それは写真の前提や、写真が持つ仕掛けのようなものを少し操作することを意味します。
この撮影そのものがフィクションである、ということではありません。私がある人物を表象するために雇った人を撮影している、そのことを記録しているのです。写真の中で提示されていること自体に嘘はありません。そこに嘘はないのです。
これは微妙なことですが、その微妙さの中に、写真や表象について私が関心を持っていることのすべてがあります。単純に「写真は嘘をつく」、という話ではありません。むしろ、真実とは文脈によって揺れ動くものだということです。揺れ動くのは写真に写っているものではなく、その意味の方です。
もう少しシンプルにいうなら、この写真たちの言語はドキュメンタリーです。しかし、意図としてはドキュメンタリーではありません。一方で、本の後半に出てくる、人が写っている写真の多くは、本質的にはドキュメンタリー写真です。私はその場を演出していません。それぞれの環境にいる人々を撮影した写真です。
写真の物質性とフレーム
Image from the series "Distribution" ©︎Daniel Shea
YK:ジェシカのパートを終えると、その先には森の入り口のような暗いモノクロ写真が待ち受けます。
DS:ジェシカの写真が、より哲学的な問いを提示するプロローグのようなものだとすれば、このパートが本当の意味での第一章となります。ここで本作のテーマが設定されるからです。その中心的な主題の一つは、写真の「物質的な条件」です。
最初に出てくる額装された写真は、木製の額に入っています。額装された写真もまた写真です。そしてその後に木、つまりその素材が由来するものの写真が続いていく。写真は大きく配置されていますが、それは何かを示唆するためでもあります。とても慣習的な言い方をすれば、この第一章では、その後本全体を通して展開されていくテーマ、関心の輪郭が示されているのです。
YK:これまでもフレーミングした作品を撮影した写真や、写真のレイヤーを示していくような手法は行ってきました。しかしこれまでは、より全体にちりばめられている印象がありました。あえてこれほどわかりやすく、序章のようにまとめたのには何か理由があるのですか。
DS:実際には、このパート以外にも額装された写真のイメージは全体を通して存在します。ただし、冒頭を中心に集まっているのは事実です。
私の本は基本的に、その本を制作しているあいだに作った作品が含まれています。こういうと、すべてがとても当たり前のことに聞こえてしまいますね。私が普段探求しているのは言語化が難しい、抽象的な領域なので、説明しようとするといつも少しばかばかしく聞こえてしまうのです。
私は、展示のために作品を制作することもありますし、スタジオで作品を制作することもあります。時には、それが完成した単独の作品になります。それが作品の最終形となり、そのまま本の中に入ることがあります。あなたが本書のブックレビューで書いてくれているように、この章は写真との物質的な関係を改めて設定する役割を担っています。
冒頭に集中している理由は、もともとのアイディアとして、本の大部分を中央のグリッドのセクションにするつもりだったからです。そのセクションは、もちろん個々の写真はありますが、見られ方の整理原理は本そのものにあります。ページが写真のグループを組織し、ページや見開きそのものが一枚の写真のようになる。だから、そこに額装された作品のイメージをたくさん入れるのは、あまり意味をなさなかったのです。
ただし、いくつかは分散させる形で配置しています。たとえば、グリッドのセクションのある見開きを見ると、額装されたイメージが登場する数少ない場面では、それが枠を壊しています。本の構造はとても厳格で、私はほとんどの場合その構造に従っています。ただし、従わない場合もあります。この見開きがそうです。そこには、イメージが存在し得る領域を示すグレーのグリッドが重ねられています。グリッドには必ずしもイメージが印刷されているわけではありません。この場合、額がその空間とルールを壊しているのです。
さらにシンプルにいうなら、額は内側にあるものと外側にあるものを形式化します。私にとって、写真を額装することの最も面白い部分はそこにあります。額装という慣習は、何かが額に入れられ、保存されるに値するほど重要であることを示します。しかし写真を額装する場合、内側と外側という概念が二重化されます。写真を撮るとき、あなたは何をその中に入れるのかを選んでいる。それ以外のすべては、外側に存在しているのです。
グリッド、記憶、イメージの量
YK:ここから本書の核であるグリッドのページに突入していきます。このパートはかなりインパクトがあります。何せ約200ページにわたり、このグリッドが続くわけです。

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これまでもダニエルさんは、手法としてグリッドの構造を使っていましたし、展覧会でもグリッド状に作品を配置することをやっていらっしゃいます。このグリッドのアイディアとこだわりはどこから生まれているのでしょうか。
DS:端的にいえば、グリッドは部分と全体の関係を設定します。写真集というメディアについて考えるなら、その中心にあるのはデザインです。ですからそれはデザイン上の問いであり、同時に、写真の断片的な性質という中心的な問題へと戻っていくものでもあります。
私にとってグリッドの面白さは、複数のイメージを同時に存在させられる点にあります。そこには二つの指向があります。一つは、より混沌としてランダムな方向です。写真の中にある主題が存在している一方で、その外側には何でも存在し得る、ということを強く示唆するものです。
ただ、多くのグリッドは、より一貫した原理によって組織されています。イメージ同士の組み合わせによって、新しい構図やシークエンスが生まれるのです。
私が本に関して好きな点の一つは、鑑賞経験が記憶に基づいているということです。本全体を一度に見ることはできません。裁断して広げれば別ですが、それでも技術的には半分しか見ることができません。つまり、アートブックやヴィジュアル・ブックを読んでいるとき、私たちはそれ以前に見たものの記憶、あるいは順番を変えて見るなら、その後に見たものの記憶を使いながら、現在見ているものと折り合わせているのです。
グリッドはある意味では裏技のようなものです。関係性や並置を、一つの視野の中で一度に明確に設定できるからです。

Spread from the book "Distribution" ©︎Daniel Shea
もう一つ、道路の写真についても言及しておく必要があります。この本の多くは、移動する車の中から撮影されました。私は世界各地の都市を走る車の助手席に乗り、撮影していました。道路は移動を示唆します。
グリッドは森から始まり、都市へと至り、これらの環境のあいだを少しずつ行き来します。しかし道路は、常にそれらの異なる場所をつないでいます。その意味で、それは視覚的なツールでもあります。グリッドによってできることは、本当にたくさんあります。複数のイメージを配置できるという事実だけでも、いろいろなことが可能になるのです。
もう一つ付け加えると、この本については、最初からイメージの量についての本にしたいと思っていました。世界が提示してくる情報量を整理しようとする経験を翻訳する試みだったからです。一見開きに12点のイメージがあり、それが200ページ以上続く。本には1000点以上の写真が含まれています。
このセクションの出発点となった影響として、ゲルハルト・リヒターのよく知られた作品集『Atlas』があります。彼はそこでとてもシンプルな前提を作りました。つまり、自分の人生におけるあらゆるものは、そこに含まれる価値があるということです。
そこには、家族や旅の個人的な写真もあれば、より臨床的な研究や、世界に対する示唆も含まれていました。それは、あらゆるものを受け入れることのできる器のようなものでした。その本は、長いあいだ私に大きな影響を与えてきました。作品自体はまったく異なりますが、このセクションにおいては、直接的な影響源といえます。
YK:今おっしゃったように、写真や本の鑑賞とは記憶に依存している。その前後のページの記憶を蓄積しながら読んでいくことによって、最終的な作品像を抱く。グリッドが200ページほどある中で、似たような写真もたくさん入っているので、それ自体が記憶の蓄積を混乱させ、本当に森の中を彷徨っているような感覚であったり、都市の中を彷徨っている感覚も生まれます。そして同時に、単なる収録枚数ではなく、ボリュームがもたらす鑑賞時間の意義を感じさせる。
グリッドが続いていく中で、テキストのコラージュも登場します。このコラージュについてもお話しいただけますか。
テキスト・コラージュと思想の競合
DS:グリッドの中には、グリッドを含まないセクションが二つあります。一つはこのテキスト・コラージュです。時間の都合もあるので簡潔にいうと、そこにコラージュされている異なるテキストは、まったく異なる世界観を表しています。
たとえば、あるテキストは未来についてのテクノ・オプティミスト的な予測です。別のテキストは、アーティストであり研究者、そしてマルクス主義の研究者でもあるアラン・セクーラによるものです。つまり、それは思想同士の競合です。
この本が、私たちがどのように世界を見るのか、そして世界がどのように組織されているのかについてどのような考えを形成していくのかを理解しようとする試みであるならば、『Distribution』は、私という一人の人間が写真を通してそれを行っている例です。これらのテキストは、世界がどのように組織されているのか、あるいはどのように組織されるべきなのかについて、別の人々が持っている考えを示しています。
もう一つのグリッドを中断する象徴的要素は、バラと建設作業員のイメージのシークエンスです。花の写真ほど形式的なものがあるでしょうか。花の写真は、ある意味で典型的な写真です。
一方で、建設作業員のイメージは、彼らの労働について何かを翻訳するためのものでした。彼らは、私が撮影している物理的な世界を作っている人たちです。そしてここでも、写真における表象の問題に戻ってきます。人々を形式的な対象にしてしまうこと。つまり、そこに写る人を、その人自身としてではなく、イメージを構成する形や記号として扱ってしまうことです。それは写真が抱える問題の一つであり、完全に避けることはできません。写真に撮るという行為には、どうしても対象を一つのイメージへと「還元」してしまう側面があるからです。
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だから私は、それとともに存在し、その問題を具体的に指し示すイメージを探していました。そして、そこでは極めて形式的な花の写真と、働く男性たちの写真が組み合わされています。
また、あなたが言及したように、少し見えにくいかもしれませんが、本の中央部分、つまりグリッドのある章には、透明なニスを部分的に重ねるスポット・バーニッシュという印刷加工が施されています。グリッドが中断される場面でも、そのニスによる構造は残ります。
そこには依然として構造の感覚があります。ここにイメージが存在し得るという可能性が示されつつ、その上により大きなイメージが重ねられているのです。したがって、それらはグリッドの大きな章の中に収められた、小さな章のようなものです。
人々のグループ、都市、社会
YK:次の章は、自然と都市を含む広義の環境、あるいは地球そのものがテーマと言ってもいいのかもしれません。そこに生息している者たちを、個人として映し出していくのではなく、グループとして描き出していく。たとえばレコードショップに集まっている若者たち、建設現場の作業員たち。分類していくような写真が続き、終わりに向かっていく。
DS:ある意味で、この本は少し退屈なのかもしれません。だから、よりじっくり見てくれる読者に対して、人物のイメージで報いたいと思いました(笑)。経験的に、読者は人が写っている写真を好む傾向があると学んできました。私自身の好みというわけではありませんが、他の人たちを通してそう学んだのです。
私は都市について多くの本を作ってきましたが、それらの本には人が写っていないことがよくありました。この本では、さまざまな状況にいる人々のグループのイメージを集め続けていました。それは自分自身に、そして観客に対して、人々が都市に住んでいることを思い出させる方法でした。建造環境は、社会的な必要、社会的な欲望、社会的な願望を反映したものです。最終的に、場所はそれらを反映しています。
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もう一つの側面は、人々のグループを写した写真もまた、部分と全体を示唆しているということです。それはこの本の中心的な整理原理です。人々のグループの写真の中では、集団的な意思決定や集団的な活動が起こっています。人々は集まり、何かについて話し、仕事をし、何かをしている。彼らは集団として行動を共有しているのです。
本の最後にポートレートだけを配置するバージョンも一度は制作しましたが、うまく機能しませんでした。しかし、人々のグループや車のグループをレイアウトしたところ、グリッドのいくつかのアイディアへと再び接続することができました。
この対話について少しメタなことをいうなら、この本は最初に見たときあまりに多くの要素があるため、ほとんど洗い流されるような、ある種のアンビエントな経験になることを意図していました。時間をかけて本当に向き合うことを選んだ場合には、本の構造が、さまざまな地点で始まり、止まるテーマを指し示していく。
こうして本を章ごとに、順を追って見ていくのはとても興味深いことだと、今あらためて思っています。本の構造自体は、非常に意図的に組み立てています。ただ実際には、多くの読者は最初から一章ずつ丁寧に読むというより、まず本をぱらぱらとめくり、そこに含まれているものの全体的な印象を受け取るのだろうと思っていました。
文学的想像力がもたらす現代性
YK:先ほどの記憶の話も含めて、非常に写真らしい指摘だと思いました。たとえば映像作品の場合、鑑賞者は早送りしたり、鑑賞対象を操作することはできますが、基本的には画面の前に座って見ることを要求される。だけど写真集には、そのような要請があるようでない、というかできない。
連続した写真を並べることはできるけれど、それは断片的ですし、断片的だからこそ、それらをつなげたときに立ち現れる像には、予測不可能な余白が生まれる。
僕はもちろんこの本を退屈だとは思わないのですが、さすがに200ページくらい同じような写真を見た後で、このカラー写真が出てきたときは、少しほっとしました(笑)。
そして写真のパートが終わると、最後にテキストが現れます。これはコラージュのような批評文や論考ではなく、この本のために書き下ろされた小説です。実際に『Distribution』を購入された方の中には、まだ読んでいない方も多いと思うのですが、ぜひAI翻訳なども活用して読んでもらいたいです。このテキストについても簡単に説明していただけますか。
DS:最後に収録されているのは、キャサリン・レイシーによる短編小説です。カフカ的な物語で、ある女性の顔を認識するシステムが登場します。たとえば交通違反の切符を切られたけれど、それは自分ではなかった、というような状況です。しかし、その背後には自動化されたシステムがあり、それに対して異議を申し立てる実質的な手段がありません。
彼女は、官僚的なシステムのループのようなものに巻き込まれていく。そのことが本の他の部分とどのように関係しているかについては、これ以上多くを語る必要はないと思います。
ただ、本づくりの観点からいえば、やはり、よりじっくりと本書を読んでくれた人に何かで報いたいという感覚がありました。これらの大量の写真から意味を読み取ろうとした後で、テキストは一種の安堵になるかもしれません。都市の中の一人の人物について、具体的に何かを読めるからです。
私はこの物語に取り憑かれていましたし、それは私自身が多くの作品を作る中で経験していたことと、主題的にも非常に深く関わっていました。
また、これはまったく別の議論になることもわかっていますが、この本はモノクロ写真が中心の本です。そのことには、どこかとても非現代的な側面があります。だからこそ、現代的な瞬間の中に人物を位置づけるテキストがあることは重要だと感じました。
YK:現代社会におけるイメージと写真、そしてAIなどの技術の関係性を扱ったこの文章を読んでからもう一度本書を読み返すと、本作がまったく違うものとして立ち上がってきます。この文学的想像力によって、本作は抽象的な写真作品にとどまらず、アクチュアルな社会性を帯び始めるのです。
冒頭に収録された女性のポートレートのシリーズも、今のテキストを踏まえて読むと、一気にその意図が理解できるのではないでしょうか。グリッド内の写真が偶然結びついていく、というお話にも出ていたように、テキストと写真、そして写真と写真が脳内でエコーし、全体を通して新たな回路を形成していく。
実はダニエルさんがこのようにテキストを効果的に使用するのは、今に始まったことではありません。『43–35 10TH STREET』、『BLISNER』、そして本作は、ある意味で三部作として仕上がっているようにも見えます。当初から想定されていたわけではないと思いますが、手法にも共通する部分がありますし、最後にテキストが収録されている構成も共通しています。
ただ、これまでの二作で巻末に収録されていたのは、論考のような文章でした。そして今回初めて、小説という、説明的ではない形式の文章が入っています。
DS:それらは異なる本ですが、主題的には関係していると思います。『Distribution』を作った後で、これはある種の三部作なのだと気づきました。そのように語るのは少し陳腐にも感じますが、たしかにそうだと思います。
最初の二冊のときには、ある種のテーゼによって突き動かされていました。私が世界をどのように見ているのか、その世界について具体的に何かを表現したいという欲望です。そしてその流れの最後にあるこの本は、もっと哲学的なもの、生きている経験そのものに関心を向けた本になりました。
だからこそ、この本について話すのが難しいのだと思います。あるレベルでは、本自身に語らせたかったからです。他の本について話す方が、ずっと簡単でした。
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開かれた問いとしての『Distribution』
YK:ダニエルさんの作品は一見すると、一枚一枚の写真に手法的な新しさがわかりやすく現れているわけではありません。しかし、既存のフォーマットや写真の伝統的なスタイルを用いながら、その内側から新しい形式を探っているように感じます。
これまでの作品では、現代のアメリカにおける資本主義社会や都市、そしてそれらに対する批評的な視点など、テーマがより明確でした。
しかし今回に関しては、森や都市、写真についてのテーマはあるものの、明確な主張や回答は用意されていない。まるで作品を作ること自体が、写真を撮るということだけではなく、それをこの写真集という物体に落とし込み、その結果何が生まれるのかを、作家と読者がともに眺めているような印象があります。
振り返ると、文学的想像力は『BLISNER』の時点ですでに導入されていました。『BLISNER』では、文章によってではなく、作品の舞台そのものが架空の街として設定されていました。しかし冒頭のジェシカの話と同じように、実際には存在する街で撮影されています。つまり、現実に存在する場所を撮りながら、そこにフィクションが入り込んでくる。このようなねじれの構造は、この時点からすでに試みられていたのだと思います。
極め付けは、その巻末に収録されているテキストです。タイトルは「Picturing the Whole」、つまり「全体を撮影する」です。そこからも、ダニエルさんの実践が一貫していることがわかります。手法としても、プリントを再撮影したイメージと、直接撮影されたイメージを並べたり、グリッドを使用したりと、良い意味で変わっていない。先ほどダニエルさんがおっしゃっていた、反復への興味、その執着心のようなものが感じられます。
そして反復しているからこそ、回帰したときに、社会の変化や環境の変化が感じられる。似ているけれど、何かが異なるという違和感として残る。今回の新作に関しては、パンデミックによる変化や、アメリカ的な倫理観、社会意識の変容のようなものを、間接的に感じさせます。
本作が示しているのは、明確な批評対象や主張がなくとも、個人的な視覚的探究から、社会や世界へと開かれていく作品を生み出せる可能性だとも思います。
DS:自分では十分に自覚していなかった自分自身の心理の一面を、他の人から説明されるのは、少し居心地が悪いですね(笑)。でも、たしかにその通りだと思います。作品はそれ以前の作品の上に積み重なっていきます。
この新しい本の違いは、もしそれが、観察を通して世界から意味を読み取ろうとする欲望についての本であるならば、それは一人の人間、つまり私がそれを行っている例だということです。そして私がそれを本という形式を通して行っていることもまた、この本の主題になっています。
他の本は、私の視点で終わっていました。何かを説明したい、あるいは証明したいという私の欲望で終わっていた。しかし、この本は開かれたままです。識別しようとするプロセスについての本なのです。それは世界について批評的な何かを反映していると思います。
それは少し居心地の悪い部分でもあります。年を取れば取るほど、世界について考えれば考えるほど、そしてアーティストとしてそれに応答しようとすればするほど、私は世界について何も知らないと感じるようになります。古くからある逆説です。
私たちは今、世界について実際に知り、世界の中にある物事に名前を与えることが、それを修復するために重要であるような時代に生きています。だからこそ、それに圧倒される感覚とともに座っていることには居心地の悪さがあります。
私の以前の本には、もっと強い政治的な解決のようなものがあったと思います。
YK:これで三部作として、一つ区切りがついたような気もします。今後どういう作品を作っていきたいか、あるいはどのようなことを考えているかはありますか。
DS:具体的にまだそれが何なのかわかりません。でも、常に何かには取り組んでいます。はっきりといえるのは、今はこの章を閉じようとしているところです。何か違うことに取り組もうとしています。
YK:展示でもどのように展開していくのか、とても楽しみにしています。

©︎twelvebooks
本稿は、2026年4月18日にSKACで開催されたトークイベント「Daniel Shea & Yukihito Kono」の記録をもとに編集されました。
編集:河野幸人
通訳:佐脇礼二郎
主催:twelvebooks
協力:MACK、SKWAT
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正しさの凡庸を超えて
──ダニエル・シェア『Distribution』
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