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写真のあとに残されたもの
──ダニエル・シェア『Distribution』



Daniel Shea, "Distribution", book cover

2014年に出版された写真集『BLISNER, IL』以降、ダニエル・シェアの作品には継続的に触れてきた。

本作はモノグラフとしては6年ぶりとなる新作にあたり、今回初めてイギリスの出版社「MACK」とコラボレーションを行っている。2010年代に都市をテーマにした写真表現に新たな地平をもたらした写真家と、同じく2010年代に現代写真集の普及と盛り上がりに大きく貢献してきた出版社との協働である。ある意味、時代を総括するような共演にも感じられる。

期待を胸に本書を読み終えて、まず浮かんだのは素直な賞賛の気持ちだった。完璧主義の構成力は健在であり、この分量の本を破綻なくまとめ上げる手腕は見事である。だが同時に、あまりにも巧妙で正しすぎる、優等生すぎる作品だという感覚も覚えた。

どういうことか。本書はまるで教科書のように、本という形態で写真を見せるために培われてきた文法と技術にとことん忠実である。シークエンスとレイアウトはもちろん、写真そのものの物質性や歴史への言及まで、余すことなく行われている。模範解答のように、あまりにもスムーズで完璧すぎるのである。

Spread from "Distribution"


手法のみならず、テーマや被写体に関しても、これまでのシェアの作品から劇的に変化しているわけではない。自然への関心の比重が増したとはいえ、2018年に出版され、高い評価を得た写真集『43–35 10TH STREET』と大部分を共有している。さらに遡れば、『BLISNER, IL』と同じモチーフが続いているとも言える。一貫性があるのは素晴らしいことだが、立派な装丁も相まって、完璧すぎるが故の物足りなさを抑えきれないまま、最初の軽い鑑賞を終えた。

だが、そのスムーズさが、どこか頭の中で引っかかるのである。

以前にも、同様の感覚を覚えたことがある。同じくMACKから2014年に出版されたナイジェル・シャフランの写真集『Dark Rooms』だ。この本も最初は特別な感情を抱かなかったが、どこか違和感のようなものが残り、何度か見返していく中で、既存のフォーマットを踏襲しながらもアップデートを試みる、内部に革新的な構造を抱えた一冊であることに、後から気づかされたのだ。

緻密に計算された作品は、読者の無意識に働きかける。この本も、同じような一冊なのかもしれない。漠然とそんな予感を抱いた。

そこでもう一度、今度はより冷静に、分析を行うように、一ページごとにゆっくりと見ていくことにした。

「森を撮る」とはどういうことか


本作の制作は、コロナ禍中にシェアが森の写真撮影を試みたことをきっかけにスタートした。しかしいざ森を前にして彼は、人間の思考が及ばないようなその存在を、うまく撮影することができなかったという。そして、「森を撮るとはどういうことか?」という漠然とした疑問を抱くようになる。

物事の紙片を切り取り、それらを紡いでいく写真という表現は、常に断片的であり、一度に全体を語ることは困難である。

そこでシェアは、「木を見て森を見ず」という古い諺を逆転させるようなアプローチ、すなわち不完全さを徹底することで、逆説的に全体像を立ち上がらせる方法を実験的に試み始めた。望遠レンズを用いて撮影するだけでなく、車窓からのみ撮影するという制約を自らに課すなど、特定の条件下で生まれてくるものに可能性を見出しながら、自然と都市の姿を見つめ直していった。

最もアメリカ人らしい女性、ジェシカ


“Jessica” series, opening section of "Distribution"

本書はまず、アメリカ人の統計的中央値──所得、年齢、職種の観点から最も平均的なアメリカ人像──を体現する女性、ジェシカのポートレートで幕を開ける。そこでは起床から出社、余暇を過ごす女性の日常が、スナップショットの手法で写しだされている。

だが、これらの写真は、その手法がもたらす親密さゆえに、どこか不気味さも伴っている。一体誰が、いつ、何の目的で撮影したのか。親密さの所在はどこにあるのか。極めて巧妙な生成画像のような印象すら与える。

そしてこの不可解さを引きずったまま序章を終えると、タイトルコールを経て、これから始まる未知の探究へと読者を誘う入り口のような、暗いモノクロ写真が現れ、いよいよ本編が始まる。

写真集の文法と完成度の臨界点


本書は大きく分けて、ジェシカのパートによる序章、導入となる第一章、グリッド構造の第二章、都市の居住者と細部に分け入る第三章、そして作家キャサリン・レイシーによる小説から構成されている。

第一章では、再撮影されたシェアの額装作品、レンガの壁を背景にした写真、都市や森林の風景、工事現場作業員のクローズアップなどが、入れ子構造で目まぐるしく展開していく。ここでは、本書でこれから探究する要素が提示されると同時に、写真がイメージ、画像、印刷物、さらにはインクなど、さまざまな要素へと分解・変容していくさまが示される。

本書をめくりながらその例を見ていこう。最初のページに額装作品の複写がレイアウトされた後、ページをめくると左手にはレンガと植物を写した額装作品の複写、右手には木の写真が配置される。さらにページをめくると左側には空白、右側には森で撮影されたであろう木の写真が置かれ、その次のページの左手では横位置の草原の写真が縦に配置され、右手には前ページのカット違いと思われる木の写真が現れる。続いて、人工物であるビルの写真と森の写真、植栽を施した建物の写真などが現れる。このようにモチーフは変われど、本書には一貫してリズムと連続性が存在している。

Framed vegetation and a photograph of a tree


こうした構成手法と視覚的・記号的要素を組み合わせた技術こそが、写真集における「シークエンス」である。ウォーカー・エヴァンスやロバート・フランクなど、写真家たちは、本というフォーマット上で写真を視覚言語的に見せるための技法としてシークエンスを探究してきた。その基本を徹底した編集によって、2010年以降に数々の名作を生み出してきた出版社こそがMACKであり、この時点で両者のコラボレーションの相性の良さが見て取れる。

シェアはこの技法を踏まえたうえで、文法をより複雑化する。写真は必ずしも横並びで似たモチーフが呼応しているだけでも、ページを跨いで対を成しているだけでもない。本書では写真が、画像、イメージ、オリジナル、複製といった異なる次元で呼応し合い、シークエンスを生み出しながら全体を通して展開していく。そして鑑賞者は、写真とは何か、イメージとは何か、そして今見ているものは何かという、視覚言語の迷宮へと引きずり込まれる。

最も象徴的なモチーフが、これまでもたびたびシェアの作品に登場してきたレンガの写真群だ。本書では断続的に、レンガに貼られた写真の写真、レンガそのものの写真、アメリカ文化を象徴する大手企業の名前が並んだレンガの壁面の写真、そしてレンガの壁紙が剥がれ落ちるグラフィックなどが散りばめられている。シェアが写真の物質性のみならず、より複雑化するイメージと写真の関係性に強い関心を抱いていることがよくわかる。

そのほかにも、フレームが外れたような額装作品、インクが溢れ出したかのような写真、幾重にもレイヤーが重なった窓の写真など、基本に忠実でありながらも、意図的にシークエンスを阻害する要素が挿入されていく。基本にとことん忠実だからこそ、こうした「外し」の効果は最大限に発揮される。そして後半に差し掛かるにつれ、本書のテーマである「自然と都市」に肉薄したイメージが増えていく。


この章でシェアは、写真とイメージの関係性、その性質を徹底的に衝突させている。写真とは何か、イメージとは何か。これを前提に序章を振り返ると、ジェシカの写真すべてに白い縁が付けられている理由や、スナップ写真風のスタイルを採用した動機も見えてくる。

実はこのジェシカという女性は実在しない。生成画像というわけではなく、統計データに当てはまる人物像としてキャスティングされた存在であり、数字上にしか存在しない、しかし統計というデータ上では最も平均的な人物とされるアメリカ人像を、モデルが演じているのである。

そしてこの第一章は、ニューヨーク大学の陸上選手のカラー写真を橋渡しに、次の展開へと移行していく。

208ページの時間

Grid sequence, central section of "Distribution"


このグリッド構造のパートこそ、本書のハイライトと言っても過言ではないだろう。

ここでは、見開きページの上段に六枚、下段に六枚を配置したグリッド状の構成によって、車から望遠レンズで撮影された写真や森林の写真が、まるでマシンガンのような勢いで連続して展開していく。写真は均質に並べられているようでいて、白インクで塗りつぶされた空白のコマが挿入されたり、途中で大きな写真が重ねられていたり、ベン・ケルウェイのペインティングから抽出された絵の具のイメージが現れたりと、フォーマットを維持しつつも微妙な撹乱が繰り返される。

前章を引き継ぎつつ、都市の居住者である動物や建設労働者、草花の姿も徐々にその割合を増していく。やがてカーニバルの写真(と思われるもの)、労働者、花々の大きな写真が現れ、アラン・セクーラ、ピーター・シュワルツとピーター・ライデン、そしてモンティ・ウマヴィジアーニによるテキストのコラージュを挟み込みながら、グリッドは続いていく。

グリッド構造自体は、シェアにとって新しいものではない。これまで彼が製作してきた作品集やインスタレーションにおいても、このレイアウトは手法としてすでに用いられてきた。そこでは主観性を排し、観察者としてイメージのディストリビューションを図鑑のように分類する意図や、彼の写真に登場する高層ビル群の窓、壁面、レンガといった均等に配列されるモチーフとの呼応も感じられる。(そもそも写真そのものが、ピクセルの均等な配列によって成立している)

だが本書におけるグリッド構造は、単なる形式的な実験にとどまっておらず、視覚的体験として大きな意味をもたらしている。

これまでシークエンスという伝統的な手法を通して、「本」として写真を見てきた読者は、突如として「右か左か」のいずれかに写真が収まっていた世界から引き剥がされ、まるで壁面に貼られた写真に向き合うかのような、一歩後ろに下がった視点への移行を強いられる。そしてこのグリッドも完全な規則に従っているわけではなく、ところどころでルールを外してくるため、読者は自身の眼のピントと立ち位置を調整しながら作品を鑑賞することを余儀なくされる。

全392ページのうち、実に208ページにも及ぶグリッド構造──ここで何より重要になってくるのは、おそらくこのページ数=時間である。シェアの写真の構成力と強度をもってすれば、より薄い本としてひとつの写真集にまとめ上げることも容易だったはずだ。しかし一度208ページにも及ぶ断片的な写真群を前にすると、本書はこのボリュームで見せること自体に大きな意味があると思わされる。

そこでは一枚一枚の写真の意味が前面に出るというよりも、すべての要素が曖昧な「群」として還元されていく。途中に大きく引き伸ばされた写真やコラージュが挿入されるが、注意深く見ると、その下にもなおグリッドは続いていることに気づく。一見すると中断されているかのように見えるが、構造そのものは決して断ち切られていない。

やがて、グリッドは徐々にフェードアウトしていく。明滅するランプのように、規則性を保ちながらも像は薄れ、読者はいつの間にか次の章へと導かれている。

生態系としての都市

Final chapter, colour photographs


最終章は、都市が呼吸し循環するためのインフラを思わせる場所を写した写真から始まる。ここまで見てきた読者なら気がつくだろう。この写真にもまた、グリッド状の構造が次元を変えて引き継がれている。この章ではカラー写真の割合が増え、これまでの怒涛の、嵐のような展開を経た後では、どこか平穏さすら感じさせる。

これまでは、都市建設に携わる労働者と動物、植物が、ほとんど等価な存在として扱われてきた。しかしここでは、より文化人類学的とも言える視点から、群としての人間の行動様式へと視線が向けられる。都市の居住者たちの振る舞い、そして人間の営みそのものが、静かに映し出されていく。

集団としての人間。その営みを通して形成される都市。シェアはこれまで都市に関心を抱き続けてきたが、突き詰めていけば、都市とは人間であり、ある種の生態系である。これまで意図的に都市の記号的・表層的な要素にフォーカスしてきたシェアだが、本書では自然への接近を通して、より本質的な探究へと歩み寄ろうとしているようにも感じられる。

やがて人間の姿は再び画面から遠ざかり、動物や抽象化された自然と都市のイメージが現れる。終わりに近づくにつれて、ブレやピンボケによって具体的な情報を判別することが困難になっていく。望遠レンズの圧縮効果で歪められた道を歩む人間、そして二枚の自然の写真とともに、本編は静かに幕を閉じる。

イメージとアイデンティティのねじれ

Final chapter, black and white photographs


もし本書が手元にあるなら、スマートフォンの翻訳機能などを使って、最後に収録された作家キャサリン・レイシーによる短編小説までぜひ読んでほしい。簡潔にまとめると、以下のようなあらすじである。

舞台は、監視カメラが至るところに設置された社会である。ある日、イーニッドという女性のもとに、交通違反を犯したとして罰金を支払うよう通達が届く。そこには写真が添えられているが、写っているのは自分自身ではなく、よく似た別人の姿だった。しかし、それを証明する術はなく、AIによって異議申し立ても却下されてしまう。

「この写真の人って、あなたよりあなたらしい気がする」

その後も何度も通達が届くうちに、イーニッドは何が事実なのかわからなくなっていく。

本書を共に読んできた読者であればわかる通り、この小説もまたイメージとアイデンティティを主題としており、シェアが都市と自然を通して視覚言語による実験を行ってきたのに対し、ここでは文学的、あるいはSF的な想像力から、本書のテーマに迫っている。

ここで改めて思い起こされるのが、序章に登場したジェシカの存在である。彼女は生成画像ではないが、統計データに基づいてキャスティングされた、数字の上にしか存在しない人物像だった。統計的には「存在」しているが、そこに固有の主体はない。だが我々は、そのデータが示す人物像を確かにアメリカ人「らしい」と感じてしまう。このねじれは、小説が描くイメージとアイデンティティの不確かさと共鳴している。

加えて本書には、一枚だけ、シェアの写真をモデリングした生成写真が紛れ込んでいる。このような静かな仕掛けもまた、写真・統計・フィクションという異なる層を横断しながら、本書全体を緩やかに結びつけている。

写真のあとに何が残るのか

これまでもシェアは、都市と自然、写真の物質性、イメージの流通といった題材を扱ってきた。それゆえに、一見したところでは、本書はこれまでと同じ延長線上にあるアップデートされた作品のような印象を与える。しかし本作は、同じようなモチーフやテーマを、似た手法を用いて扱いながら、根本的に何かが異なる。それこそが、大きな出来事を経た後の社会、そしてシェア自身の変化なのだろう。

私たちは日常と対立するものとして非日常を捉えることが多い。だが、震災やコロナ禍などを経て、おそらく多くの人が感じているように、私たちは単にその間を往来しているのではない。同じように見えても、そこに至る過程を経た先にあるのは、これまでとは異なる新しい「日常」なのである。

シェアはこれまで、アカデミズムに根差した社会性への言及や現代社会を主題とする作品制作を行ってきたが、本作においては、直接的な社会批評として写真を用いることから一歩距離を取り、その役割を文学的な想像力に委ねている。その一方で、自身は視覚言語を通して、言語化しきれない領域や、感覚レベルで抱かれる曖昧な予感を掬い上げようとしているようにも感じられる。この変化も、これまでと同じような手法で制作を行っているがゆえに、より顕著に感じられる。

「Distribution」というタイトルが示すように、本書で扱われているのは、単にイメージの配置や配分だけではない。イメージがいかに分配され、どのように認識され、どの地点で「事実」や「個人」と結びついてしまうのか。その不安定なプロセスそのものが、写真と文学、都市と自然、人間と環境を横断しながら提示されている。

完璧すぎるように見えた構造は、読み進め、時間をかけて向き合うことで、徐々に別の相貌を帯びてくる。本書は正しさや完成度の先にある、曖昧で、まだ名付けられていない領域へと、静かに読者を導いていく一冊なのだ。

Article by Yukihito Kono (21 January, 2026)

 

Title: Distribution
Artist: Daniel Shea
Publisher: MACK, August 2025
Format: Embossed linen hardcover
Size: 215 × 270 mm
Pages: 392
Language: English
Edition: First edition
ISBN: 978-1-917651-29-5

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