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Artist Interview: Nigel Shafran (Photographer)


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─ まずは今回出版された新刊、『The Well』についてお話をお聞かせください。ファッション写真の分野で活動を始めておよそ30年がたちますが、本作はナイジェルさんの10冊目の作品集にして、初めてその長期間にわたる仕事を振り返る作品集です。本書を出版することになった経緯と、なぜこのタイミングでコマーシャルワークをまとめた本を出版することになったのかを教えてください。


私がコマーシャルの分野で撮影を始めたのは30年か、おそらく35年ほど前でしょうか。『The Well』のアイディアは、この本のデザイナーのリンダ・ファン・ドゥールセンの提案から生まれました。彼女はブックデザイナーという肩書以上の存在で、本書の制作においても本当にうまく私を駆り立てました。というのも、私はこれまで仕事として撮影した写真とパーソナルワークはある意味別物として捉えていたので、最初に話を聞いた時は「私の目が黒いうちはそんなことは絶対にやらせない!」と思いました(笑)。でもこの本を制作した今は、すべてがつながっていると考えることができるようになりました。本書に収録されているのは、いわゆるファッション写真ばかりではないと思うのです。後期の作品に関しては近年の商業的なファッション写真ですが、初期の作品のほとんどは、私がかつてアシスタントとして働いていたようなファッション写真や、もっと若い頃にやっていたことに対する反発として制作されたものです。街行く人たちのスナップ写真であったり、ファッション写真やさまざまなスタイルに接続し得る作品であっても、必ずしもファッションモデルやそういう人たちを撮影しているわけではないのです。なので、それらのふたつの写真は何らかの形で繋がっているのです。

─ まさに今おっしゃられたように、本書は単にコマーシャル分野での業績をまとめた作品集ではなく、あなたのファッション写真と作家としての写真を接続する意図がさまざまな点からも見て取れます。例えば、この本を出版したのはレトロスペクティブなカタログを制作する大手出版社ではなく、より作品性の高いアートブックを制作するロンドンの独立系出版社「Loose Joints」であり、(出版前の)現時点で本書のメインヴィジュアルとして使用されている写真が、あなたの最もよく知られた写真のひとつである、キッチンで椅子に腰掛けた奥さんのルースさんの写真と同じ構図で撮影されたものであることからも、その意図がうかがえます。その繋がりに意識的になったのがごく最近のことだというのは面白いですね。

おそらく、一方は他方に対する反動なのでしょう。あるいはそれらは互いに補完しあっているのかもしれません。私たちは大富豪として生まれない限り、生活費を稼がないといけません。そしてそれはいつも大きな問題として私たちの身にのしかかります。一部の写真家たちは写真を仕事として教えたり、あるいは運が良ければプリントを売ることで生き抜いていくことができます。一方で他の写真家たちは、全く別の仕事で生計を立てながら作品制作をしています。昔に比べて、今は商業的な分野で働くことがより受け入れられるようになっていると思います。しかし私はそこに深く携わっているがゆえに、過剰消費の一部として女性がどのように描かれるか、ということをはじめとした産業的な問題…問題とまでは言わずとも、課題を常に抱えています。

─ だからあなたのファッション写真は過剰に演出されていないのでしょうか。つまり、パーソナルワークとは分けてファッション写真らしく演出することもできると思いますが、それはあまり表面的には現れておらず、パーソナルワークと同じような質感で統一されています。

最近の写真の中には、よりプランに沿って撮影されたものもありますが、いずれにせよあまり演出されたように見えないといいですね。近年行っているファッション写真の撮影では、頭の中にあるたくさんのアイディアやドローイングをもとに、それらを再現することもあります。そして最近では、もし幸運にも自分が写真家として多くのオーディエンスを持つのなら、異なる題材に関する自分の考えを作品に盛り込むことができるかもしれない、とも考えるようにもなりました。政治とまでは言いませんが、ごくごく小さなことであれば、政治的なこともあるでしょう。また、ファッションモデルや被写体たちのことは物としてではなく、また過度に性的でもないように撮影するように心がけています。

Above: spread from "Ruthbook" (Self published, 1995) / Below: spread from "The Well" (Loose Joints, 2022)

─ 理解できました。あなたは1995年に自費出版した作品集『Ruthbook』をきっかけに、より本格的に作家活動に専念し始めます。しかしそれ以前のプロジェクトにも、あなたの身近な環境や周囲に対するそのような個人的な視線は既に現れていたように思います。もっと早くに他のプロジェクトを写真集としてまとめることもできたと思いますが、なぜこの極めて個人的な作品を最初の本として出版しようと考えたのでしょうか。

おそらく、あの作品が当時の私の作品の中でもっとも感情的だったからであり、そして人生は一度きりだと思ったからです。ある種セラピーのような意味もあるのかもしれません。私は人生で最も重要な写真は、家族のスナップショットだと思っています。ある意味、私は自分のことをとても優秀なプロの家族写真家であると感じています。そうあることはとても幸せなことです。あるいは大判カメラを持ったスナップショット写真家 ─ これはいいフレーズですね、気に入りました(笑)。前にも言ったことがあると思いますが、私にとって重要なことは自分の目の前にあるものごとで、そしてそれを可能な限りはっきりと目を凝らして見ることです。それはいつでも容易なわけではありません。

─ そのような個人的な写真を作品として発表すること、また個人的であること自体に当時何か批評的な意味があったと思いますか?

それは分かりません。それが私のやっていることですから。私はよく学生たちに「とにかくやってみろ」と言います。その時々に撮影をして、それを編集したり、その写真を使ったり、出版したりしなかったり。何もしなければ何も生まれません。とてもシンプルな話だと思います。物事について時間をかけて考えることもあれば、働く時もあるし、日々の仕事をするときもある。いろいろな作品を見ることもあれば、昔の巨匠の絵画を見る時もあるし、レシートと向かい合って計算をすることもある。だから、どう答えたらいいのかわかりません。その時代には有効だったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。私は自分の作品についてあれこれと語りすぎることで、イメージを凝り固めたくないのです。私はむしろ、なんというか…作品について語ることが仕事の人は他にもいます。キュレーターたちは今何が面白いかを見極めることができる人たちであり、過去から現在までを見渡した上で何が興味深いかを選択します。ですが、私は自分の作品が人々に影響を与えるまま、自由にさせておくという考え方が好きなんだと思います。近年世界に溢れかえっている多くの写真とともに、そのように存在する自分の作品が好きなんです。

─『Ruthbook』以降、あなたは本を重要な作品形態として今日まで制作を続けてきました。展示などの発表形態もある中で、本というフォーマットの何があなたをそこまで惹きつけるのでしょうか。

写真集は、写真の見せ方という点において最も効果的な方法だと思います。シークエンスや編集を通して作品の見え方をコントロールできますからね。ノートパソコンみたいに電気を必要としないし、手頃な価格で見てもらえます。それに、いつ見るかも自由です。だからわざわざ展覧会を開く必要もありません。展覧会は一度終わってしまえばもう見ることはできません。それに展覧会を開催するには膨大なエネルギーが必要で、そして終わればそれもなくなってしまう。その違いは、本で写真をみた時と画面上で写真をみた時にも現れますよね。コンピューターの画面も当然作品を見る場所ではあると思いますが、私にとっては写真を見る一番好みの場所というわけではありません。写真集は実際に手に持ったり、所有したり、気に入ったり気に入らなかったりする、三次元の物体です。それはまた、よりゆっくりとした時間の流れを持っている気もするのです。スクリーンよりは本のほうがより集中力も保てる気がしますし、実際私はこれまで画面上で写真を長時間見た経験がないように思います。なぜかは分かりませんし正確には少し違うかもしれませんが、おそらく私たちが皆、機械をとても素早く使うことに慣れてしまっているからではないかと思います。それに、私はいささかコントロール狂の節があります。写真集であれば素材から印刷、シークエンスの全てをコントロールできますし、それらは作品制作において全て等しくとても重要なことなのです。

─ それはあなたが自費出版を好む理由でもあるのでしょうか。

そうですね。だけど自分でやるといつも何かしら失敗してしまいます(笑)。とはいえ、私がこれまでに自費出版したのは…。

─(画面でシャフラン氏の自費出版作品集を見せる)

その本はどこで手に入れましたか?

─『Ruthbook』ですか?確か以前ebayで購入しました。

その本はもともと7.50ポンドだったんですよ。自転車に乗って本屋に営業して回ったのを覚えています。全財産を良い紙に費やしました。そしてカバーには…あ!タイトルの文字を見てください。



─ 表紙のタイトルは一冊一冊あなた自身の手で書かれています。

はい、一本の鉛筆で全部にタイトルを書き入れました。多分まだその4B鉛筆がこの暗室のどこかにあると思います。タイトルは何らかの理由で一単語の『Ruthbook』です。なんで一語にしたのかはわかりません。今でもそれと全く同じように書けますよ。一文字一文字こだわった書き方をしていたのを覚えています。「Book」は大きなゼロと小さなゼロの組み合わせですが…なぜでしょうね。当時目にしていた他の作品に対する反動のようなものもあるのかもしれません。私はいつも半分くらい自分が何をやっているのか自分でわかっていません。90%は何をやっているのかわからない。

─ そして後になってからわかるのですね。

おそらくね。 制作におけるマスタープランなんてないのです。

Spread from "Ruthbook
" (Self published, 1995)

─ シークエンスについてもう少しお話を聞かせてください。あなたは過去のインタビューでシークエンスのことを「感情の波」のようなものであると表現していました。写真の配置によって生じるその効果に気がついたのは、どのようなきっかけからなのでしょうか。それはあなたが雑誌上で写真を構成する過程で培われたのですか?

そのことについてもあまり深く考えないようにしています。私は考えに基づいて決めるよりも、組み上げたシークエンスを見ながら決める方がずっと性に合っているのです。なのでそれは考えることによってではなく、写真を動きの中に配置して、成立するかどうかで判断しているんです。私の知人の中にはテレビを見ながらやるのが好きだという人もいます(笑)。また、制作したダミーブックを友人や尊敬している人たちに見せて、その反応からシークエンスがうまく機能しているかを見ていたこともあります。彼らから自分がそのシークエンスを見た時と同じ反応が返ってきたら、それはおそらくうまく機能していると判断しました。私はおそらく人々に ─ 反応という言葉が正しいかわかりませんが ─ 自分が抱いたような感情的な反応を求めているのだと思います。自分が感じたことが、他の人にもうまく伝わるといいなと思うんです。そこには大きな間や、大きな変化や何か他のことがあるかもしれませんが、はっきりとは分かりません。繰り返しになりますが、これは私が昔からやっていることなのです。新しく作品を編集するときは、それがうまくいってると感じるか感じないか、それだけなのです。私は制作に関してロボットのように、ルールに基づいて物事を考えたくないのです。ある人々は物事に精通しており写真の知識も豊富ですが、私は作品を利口な感じにしたくはないのです。賢くあることに全然興味はありませんし、何かがうまくいき過ぎていると思ったら、わざと真逆の変な方法に変えることもあります。それが何を意味するのか自分でもよく分かっていませんが、私は自分の作品を見る人に何かしらの反応を与えたいのです。そしてその反応が自分の反応と同じであれば、それは私にとってうまくいったといえます。

─ つまり、あなたにとって写真は被写体とのコミュニケーションであるだけでなく、鑑賞者とのコミュニケーションの手段でもあると。

おそらくそうですね。それが私のコミュニケーション方法なのです。

─ シークエンスの観点から見て、私は『Dark Rooms』は特に興味深いと思っています。

その本がベストセラーかどうかはさておき、私も気に入っています。本のカバーが本来はこうなる予定だったのを知っていますか?(ダストカバーを外しながら)天国への階段です。ここでこのドローイングを書きました。この絵は1946年の映画、『A Matter of Life and Death(邦題「天国への階段」)』のポスターを参考にしています。私はこの本を作れたことをとても誇りに思っています。

─ 本書の最後にはどこかポジティブな要素も感じます。これらの感覚は、この本であなたが持ち込んでいるふたつのシークエンスが大きく影響しているのではないでしょうか。ひとつは各プロジェクトにおけるそれぞれの写真のシークエンス、そしてもうひとつは5つのプロジェクト自体に与えられた、交響曲のようなシークエンスです。

この本ではあらゆる物事が前に進んでいきます。食べ物とエスカレーター、それは私たち人間や現代社会を象徴するものであり、食べ物は文字通り私たちの一部になります。そして最も通い詰めたくないショップであり、人生の終わりに差し掛かるときに必要なものが並ぶ介護用品店。最後に収録された容器の写真はパッケージの終わり ─ とても暗い最後のチェックアウトのようなものです。本書に似た構成は、2004年に出版した『Edited Photographs』でも試みられました。この本では最初から最後まで全ての写真がつながっているような感覚があります。『Dark Rooms』では、あなたが仰る通りなのですが、あまりにも写真「物語」調になりすぎないように、私たちの生活と人生における別れの写真を要所要所に入れたのです。そこに私たち家族の姿を入れたかったのです。

Spreads from "Dark Rooms" (MACK, 2016)

─ それではひとつの作品にはどのくらい制作時間をかけるのでしょうか。『Dark Rooms』に収録されたエスカレーターのシリーズなど、中には数回の撮影で終了したようなものも見受けられます。

あのエスカレーターのシリーズはものすごい熱量で一気に撮影にのめり込んだ例外です。あるとき私は、写真家のタイローン・ルボンからデジタルカメラを借りました。デジタルカメラに関しては全くの素人でしたが、あの場所を撮影するには手持ちのフィルムカメラでは少し動作が遅すぎたのです。当時私は偶然あのエスカレーターの場面に遭遇して、素晴らしい場所だと思ったのです。まず第一に、あの場所のように背景に広告がない場所はロンドンにはそうそうありません。また、同じような場所でも自然光で照らされた場所もまた多くありません。そして3つ目に、方眼紙のようなマス目の背景です。それはエドワード・マイブリッジの作品を想起させます。そして4つ目に、ちょうど撮影に適した、間に立てる場所がありました。そして5つ目に…。

─ まだまだ出てきそうですね!(笑)

私にとっては、まさに完璧な撮影スタジオでした。現代性、現代人の洋服、現代のファッションがその完璧なスタジオを次々と通り過ぎていく。だからこそ、「今これをやらなくちゃいけない」というエネルギーが強く湧いてきました。それで1、2週間をかけていろいろと試しながら大量に撮影してみたのです。そしてそれっきりやりませんでした。作品の中にはもっと時間をかけるものも当然あります。例えば、2000年に制作した洗い物のシリーズはまる一年を費やしました。時間をかけてもさらにやる気が湧いてくる時もあるし、興味が薄れていくこともあります。


Spread from "Dark Rooms" (MACK, 2016)

─ なるほど。あなたは2018年に自身のスケッチブックをその一部として構成した個展を開催しましたが、ノートは現在も制作しているのでしょうか。

ええ、今もよく作っています。そして私はそのノートを「ワークブック」と呼んでいます。特にデジタルカメラを使うときは ─ それはとても簡単で素晴らしいのですが ─ 最初はどうしていいかわからなくなるため、まずは写真をA4サイズにプリントアウトして、そして次にこのように小さく印刷します。それらの写真はワークブックに貼り付けておいたり、ボックスファイルに入れておきます。デジタルカメラで撮影する写真はさらにバラエティに富んでいて、例えば街で見かけた何かだったり、息子がサンドイッチを食べているところだったり ─ 自分がサンドイッチを食べている写真は撮らないんですけどね。息子の宿題を代わりにやっているときでも、何となく写真は撮るでしょう。 そしてそれらの写真を思い出としてノートに貼り付けておくのです。私自身の思い出のために。それをどうするのかはわかりません。もしかしたら何かをしたり、今は想像もつかないどこかに組み入れる理由が見つかるのかもしれない。というかなぜ写真を取るのか、現時点ではその理由すら自分では分かりません。

─ このノートを見ていると、あなたの日常的な物事に対する視線の鋭さと、それらの断片から生まれた各々のプロジェクトが繋がっていることもはっきりとわかります。

私はこれまで長年、商業写真家として生きてきました。そしてその業界内で過剰なもの、贅沢で高価なものを多く目にしてきました。私は自分自身、それらに本当にどれだけ感動しているのか、自分でもよくわかりません。私はブーツを買うのが好きなのですが、今まで使っていたブーツを履き潰して新しいブーツが本当に必要になったとき、とても幸せな気持ちになります。まさに「Yes!」といった感じです(笑)。だけどその1足で十分なのです。3足も余分に買ったとしたら、むしろその幸福感は半減してしまいます。ある意味、価値を失ってしまうのです。 日常のことについては1000回以上は口にしているのであまり話したくもないのですが、自分の目の前にあるものを意識すること、そして持っていないものではなく、今自分が手にしているものこそが重要なのだと思うのです。今の世界と広告は、私たちがまだ所有していない物事を手に入れさせようとしてきますが、私は自分の身の回りにあるもので幸せに…別の言葉で置き換えると何でしょうか?はっきりとはわかりませんが、今あるもので平穏な気持ちになりたいと思っているのです。平穏という言葉も正確かはわかりません。あまり言葉巧みにはならないようにしているんです。コマーシャルワークとパーソナルワークの間には多少の緊張関係のようなものがあり、それらは一方が他方に、あるいは互いに補完しあっています。悪いことばかりではないですし、おそらくどちらか一方が欠けても私はやっていくことはできないのでしょう。

─ そのような結びつきのあるコマーシャルワークに関して、個人的な作品制作とは異なる面白さとは何なのでしょうか。

アメリカン・ヴォーグで撮影できるのは本当に幸運なことだと思っています。多くの人がそこで自分の作品を見てくれるのです。そのように自分の作品を共有するためのステージを与えられたことをとても幸運に思っています。私は自分が使いたい作品や自分が選んだ写真を、媒体に編集させることはありません。ですので、紙面に掲載されているものには、自分が本来描き出そうとしていたものがそのまま反映されているといいなと思います。そこで発表している写真もまた、ステレオタイプにまみれた過剰に性的なイメージでは決してありません。そして願わくば、映し出されている女性たちが興味深く、キャラクターを伴った人物に見えてほしいと思っています。当然彼らは物ではないわけですから。しかし同時に肝心なのは、コマーシャル写真はくだらないものを売るためのものだということです。文化的に見てファッション写真は面白いものです。例えば、アーウィン・ブルーメンフェルドやアーヴィング・ペンは偉大な写真であり、彼らの写真がその時代の興味深いイメージであるということは間違いありません。彼らの名前は今パッと浮かんだだけで、他にも多くの優れた写真家がいますが、彼らのことを単に「ファッション写真家」と呼ぶことが正しいのかどうかは私にはわかりません。彼らは仕事以外のパーソナルワークも制作しているわけですし、彼らも私と同じように自分が興味のあることについて知る必要があったのでしょう。本当に作家活動をしたいと望んだとしても、同時に生計を立てなければいけないわけですから何とも言えませんが。もしくは…そういえば元の質問は何でしたか?

─ あなたがファッション写真撮影において興味深いと感じることは何か、です。

あぁ!話が外れてしまいましたね。確かにファッション写真はパーソナルワークとは全然別物で、普段はやらないような内容ですからね。だからおそらく、私はパーソナルワークと同じスタイルでファッション写真を撮りたくなかったんだと思います。しかし冒頭でも話したように、今は構図やライティングなどの要素に通じるものがあると思っています。特にライティングは、私の作品の大部分を占める重要な要素であると感じています。被写体がどのように照らされているかは、時に被写体そのものを物語ります。商業誌でなければ、唐突にルースにカタツムリの格好をさせてみたり、ガソリンスタンドの格好をさせてみたり、そのような撮影はしません。相手に対して失礼だったり、敬意に欠けていたりしない限り、それはそれで楽しいものです。

Above: spread from "Dark Rooms" (MACK, 2016) / Below: spread from "The Well" (Loose Joints, 2022)

もうすでに言ったようなことかもしれませんが、私も自分で何を言っているのかわからないことも多いのです。だけど、その感じが結構好きなのです。あるドローイングを思いついて描く、そしてあるところで突然やめる。例えば、女性がポテトチップスの袋を20個抱えている絵を描いてみようか。そして実際に写真はそのイメージに正確でないといけません。このレジの写真が見えますか?一方こっちの写真では、ファッションモデルのベラが頭にポテトチップスの袋を載せています。この写真に関しては、このようにパーソナルワークとファッション写真が思わぬところで結びついていたのかもしれません。いつも通り、私はそれを意識していたのかどうか、繋がっているのかはわかりません。あまり考えすぎたくないのです。繰り返しになりますが、あまりにも深く考えて慎重になりすぎると、アイディアの芽を摘んでしまうんじゃないか思うんです。だから私はただアイディアを書き出して、すぐにやってみるほうが好きなんです。そんなイメージは見たことがないからやってみたい、という風にね。

今パッと思いついた考えですが、私はそのようにアイディアの流れに身を任せるのが好きなんだと思います。そしてその流れを止めたくはありません。頭の中から何かが出てきて、それについて考えて分析することも時にはあるかもしれません。出てきたアイディアを商業的なファッション写真の仕事で試してみる。それはただじっと考えるよりもずっと思慮深いのではないでしょうか。アイディアがパッと浮かび、実践してみて、当然うまくいくこともいかないこともある。だけど他の個人的な作品に関しては商業写真のように演出しませんし、これまでもしていません。私は経理の仕事をしているかのように写真を見返すのです。お、ここに私の人生の履歴が残っているぞ、レシートの山に一緒に投げ捨ててしまいそうな小さな小さな歴史が。どこに行ったか、何を食べたか、誰と過ごしていたか、そして何かを買ったかといった、私という人物を構成している小さな歴史の積み重ねが。私は自分の個人的な作品のそういうところが好きなんです。…と、また大袈裟な言い方になってしまいましたね(笑)。

(Interviewed on 20 April, 2022 by Yukihito Kono)

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ナイジェル・シャフラン/Nigel Shafran
1964年、イギリス生まれ。1980年代後半よりヨーガン・テラーやコリーヌ・デイ、デイヴィット・シムズらとともにロンドンの「i-D」、「THE FACE」、「Dazed & Confused」などのファッション/カルチャー誌で活躍し、次世代の写真家として注目を集める。1995年に自費出版した作品集『Ruthbook』は、写真作家としてのキャリアを本格的にスタートするきっかけとなったのみならず、パートナーとの関係性を題材にした名作として、写真集の歴史にもその名を深く刻んだ。日々の暮らしの中で見過ごしてしまいそうな物事への鋭い視線と遊び心に溢れた写真は、写真作家として、そしてファッション写真家として多くのファンを獲得している。
nigelshafran.com

Nigel Shafran: Books 1995 - 2022
2022年5月28日(土) - 6月12日(日)*第一週は水曜木曜、第二週は月曜火曜定休
営業時間:平日12:00-17:30/土日祝12:00-19:00
会場:IACK
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